朝考夜書

朝は考え、夜は書く。

十字路(12)

2月の中旬から笠奈のアメリカへのホームステイが決まり、その間、ミキちゃんの授業を見ることになった。笠奈が受けもっていた受験生は2月の最初に第一志望に合格した。もしその子が受験に失敗し、二次募集の学校を探さなくてはならない状況になったとしたら、笠奈はどうしたのだろう? でもそんなことは、初めから起こる可能性ゼロ、と言った雰囲気だった。世界は笠奈を中心に回り、そして笠奈は胸を張って自分の夢をひとつ叶えた。

本を貸してほしいというので、村上春樹吉本ばななサリンジャーを貸した。「ライ麦畑でつかまえて」だ。「ノルウェイの森」の中で主人公ワタナベが「ライ麦畑」の主人公ホールデンに喋り方が似てると言われるシーンがある。帰ってきたら、そのことについて話そうと思った。笠奈は「飛行機で読むね」と言った。代わりに私は笠奈に絵はがきをリクエストした。「わかんないけど、送れたら送るね」と笠奈は答えた。妙に優しい口振りだった。

残された私は、ミキちゃんの授業のコマ数が増えた。だが元の生徒の進路が決まったので、物理的負担はなにも変わらない。それなのに、何故か違和感のような、心に引っかかるものを感じていた。最初はそれを、笠奈が国内にいないことによる空虚感ととらえていたが、何日経ってもその感覚を拭うことができない。3回目の授業でようやく気付いた。ミキちゃんが髪を染めている。

後ろ髪を2つに分けて縛り、ハタキの先のようになっているミキちゃんの髪が、ほんの少しだけ茶色くなっていたのだ。よくよく見なければ気付かない。「蛍光灯の加減」と言えば通るくらいの色合いだ。だが、一度そうとわかってしまえば、受ける印象はまるで変わる。垢抜けた女に見えると同時に心理的距離も感じる。漢字テストを解かせている隙にまじまじと姿を見るが、他に変化はないようだ。耳にも穴は開いておらず、純真無垢なままだ。

態度も以前と変わらない。私が最初の英語の授業のとき「さて、笠奈先生よりうまく教えられるかな?」とからかってきた。
「言っとくけど文系はスパルタでいくからね」
「きゃー」
ミキちゃんのわざとらしい悲鳴に私は安堵した。ミキちゃんとの授業の時、私は意味もなく早目に来て、テキストを机の上に並べる。それから今日はどんな話をしようかとあれこれ思案する。前の男の生徒のときはなるべくギリギリにきて、塾にいる時間を極力短くしようと心がけでいた。今は授業中の無駄な時間を少しでも減らすために、前もってできることはしておこうとしている。

「気づかなかった。髪染めたんだね」
「あ」
両手で頭を覆いながらミキちゃんがこちらを見る。
「なんか急に大人になっちゃったみたい」
「よくわかりましたね、誰も気づいてないのに」
「笠奈も?」
「笠奈先生が行ってから染めたんだもん」
「あ、そうか」「怒られちゃうから?」
「うーん......そうかも」
笠奈がミキちゃんに対して親ぶって厳しくする様はなんとなく想像できた。
「あいつうるさそー(笑)」
「でもさ、わたし笠奈先生のこと好きだよ、心配して言うんだと思う」
「わかるよ、俺が夏期講習で最初にミキちゃんの授業見ることになったときも、笠奈のやつすげー言ってきたもん」
「ていうか先生、「笠奈」とか「あいつ」とか恋人みたいな言い方するね、ついに付き合ったの?」
「んなわけないから。笠奈さんとは友人関係です」
ミキちゃんはきゃっきゃとはしゃぎ、さらに私を追い込んでくる。私は休憩を中止し、棚からワークを10冊くらい取り出してきて、ミキちゃんの目の前に積み上げた。
「終わらなかったら全部宿題にするから。中学生に恋愛の話は早すぎます」
「ぎゃー」

ミキちゃんの髪について、もっと話を聞きたかったがそういう雰囲気でなくなってしまった。単純にオシャレで染めたんじゃないような気がする。以前サッカー部とつき合っていると言っていたから、その彼と何かあったのかもしれない。あるいは、自閉症の妹がらみか。しかし私の目を盗んでワークを隠そうとするミキちゃんを見ながら、やはりあれこれ詮索するべきではないと思い直した。私との時間が、気晴らしとか、そんな風になればいいと思う。


笠奈が戻ってくるまでの間に、一度高校時代の友人たちと飲みに行った。会ってみると5人中3人の就職が決まっていて、フリーターは私ともうひとりだけだった。大学を出た直後は誰も仕事がなかったので、私はなんだか置いてけぼりを食ったような気がした。アルバイトをするより、定職につくほうが余程効率良く金を稼げるとも言われた。確かにそうだ。

考えてみたらミキちゃんの授業を見るのも今だけで、笠奈が戻ったきたら全教科を笠奈が見るのかもしれない。元々笠奈の手がまわらないところに私があてられたわけで、笠奈の生徒もひとり進路が決まったのだから手は空いたのだ。

私は一度ハローワークへ行ってみることにした。地元のハローワークはあまり大きなところではなかったが、中は人でごった返していた。年寄りも若いのも、子連れの女もいた。病院の待合室のような風景だった。全員がうつむきがちなところも似ている。背もたれのない固いソファーがならんでいるのも似ている。職員は面倒くさそうに求職者の相手をしている。とりあえず登録を済ませ、割り当てられた端末で求人情報を探した。そこまでに20分くらい待たされた。私はできるだけ給料の安い、事務職を検索した。給料が安ければそのぶん仕事は楽だと思ったからである。事務ならあまり人と話さずに済むとも思った。様子見と決めて行ったので、私は何枚かの求人票を見ただけで満足して帰った。玄関の灰皿の前には、顔中シミだらけの男がタバコをくわえながら、手ぶらで駐車場へ向かう私の事を眺めていた。

私が聞かされているのは、1ヶ月は笠奈の代わりにミキちゃんを見て欲しい、というところまでで、実際笠奈がいつ帰ってくるのかは知らなかった。絵はがきも来ない。現地の生活が楽しすぎて、笠奈はこのまま帰ってこないのかもしれないとか考えた。そう思っていたら、3月最後の土曜日に笠奈から電話がかかってきて、今夜飲もうといきなり呼び出された。私は突然画面に現れた笠奈の名に状況が飲み込めず、着信拒否しそうになった。笠奈は既に一週間前に日本へ帰っていた。
「だったらその時にひと声かけてくれれば良かったのに。いきなり呼び出すなよ」
「だって色々やることあったんだもん。もし暇だったら、て感じだから、用があるならまた今度でいいよ」
もちろん私は暇を持て余していた。

笠奈は若干肌が荒れてる事を除けば、特に変化はなかった。ホームステイとは何をするのか私には想像がつかないが、笠奈はすっきりした顔をしていた。一ヶ月前の受験のストレスから完全に解放され、リフレッシュできたように見える。向こうでのエピソードをいくつか話してくれたが、私がそっち方面に興味のないせいか、話の要領すらつかめなかった。まあ、でも楽しかったらしい。

乾杯をした後に、笠奈はバッグから小さな包みを出して「お土産」と言ってくれた。開けてみると、見た事もないキャラクターのボールペンだった。白熊をモチーフにしてるようだが、目がランランとして、手足が異様に細い。笠奈のセンスを疑いたくなるくらいの安っぽいデザインだ。私が何も言えないでいると笠奈は「あんまし荷物増やせなかったからさ」と言い訳した。絵はがきのことを聞くと「売っている場所がわからなかった」とのことだった。

「久しぶりだね。髪伸びたんじゃない?」
そういえば随分髪を切りに行ってない。
「生きてるからね」
「また『ライ麦畑』みたいな喋り方してる」
「読んだんだね?」
「読んだ読んだ。向こうの人も知ってたよ」
アメリカの小説だからね」
「まだ荷物にまぎれちゃってるから。今度返すね」
「いいよ、あげるよ」
「なんで? 意味わかんない」
「俺もわかんない」

少し別の話をしてから、再び旅の話に戻り、そうそう、と言った感じに笠奈はバッグから写真を取り出した。

空とか草とか家とかアメリカ人とか、ただの旅行風景の写真だった。特に面白くはなかったが、日本との違いに驚いて見せ、笠奈を喜ばせてあげた。笠奈の写っている写真も何枚かあり、笠奈ははっきりとわかるくらいよそゆきの笑顔を見せ、それだけはおかしかった。怒るだろうから、声に出して笑ったりはしない。もっと色んなシチュエーションの笠奈が見たくたる。

写真の中には、一緒にホームステイしたと思われる日本人が何人か登場したが、1人頻繁に出てくる女の子がいた。彼女だけのパターンもあったし、笠奈とのツーショットや、外人と写ってるのもある。誰かと聞くと「ルームメイト」と教えてくれた。真ん中で分けられた黒くてストレートの髪は、両サイドの肩にかかり、笠奈よりも雰囲気が大人っぽくて品がある。肌は浅黒く、開かれたおでこには、いくつかニキビができている。笑顔の隙間から覗く歯が白い。鼻も高い。

私が一通り写真に目を通して返すと、笠奈はその内の1枚を選んで、テーブルの真ん中に置いた。正確に言うと、サラダの大皿と私の小皿の間だ。笠奈とルームメイトの2ショットだ。
「その子、瀬田さんて言うんだけど。今ね、彼氏いないんだって。そんで、君の話したらぜひ会いたいって。なんか独特で面白そうって言ってて結構盛り上がったんだよ。良かったら今度、会ってみない?」
私はゆっくりとビールを飲みながら笠奈を見て、それから再び写真の中の瀬田さんを見てみた。さっきからよく出てきた黒髪のおでこにニキビが瀬田さんだ。かわいくないことはない。その隣に写っている笠奈の顔も見てみるが、ちょうど照明が反射し、光に塗りつぶされてしまっている。どうしてこうなった。意味がわからない。
「この人に? 会うわけないじゃん」
「なんで?」
私の言い方に、笠奈は明らかに不快そうにした。「良かったら」てというくせに「良くない」の選択肢はないのだ。笠奈はどこまでも身勝手で無神経な女なのだ。笠奈は瀬田さんの容姿を非難してると受け取ったのだろう。トレードマークのファジーネーブルを持つ手に力が入っている。
「好みじゃないってこと? でも会ってみてもいいと思う。性格もいい感じだし」
「違う違う、そういうことじゃないよ」
「どういうことよ」
「わからないの? 俺が好きなのは笠奈だから」
何当たり前のこと聞いてんの?というトーンで言ってみた。笠奈の目を見て、ゆっくりと落ち着いて伝えたつもりだが、笠奈にどう見えたかはわからない。笠奈はテーブルに肘をついた体勢で固まっている。
「ていうか。今、なんて言ったの?」
「好きだと言った。愛の告白」
笠奈が目をそらす。それが、結末を暗示しているみたいで、心臓が押しつぶされそうになる。笠奈は口が半開きになっていて、何度か瞬きをした。そして肘をついて、両手で顔を覆ってしまった。指の間から、茶色い髪の毛がはみ出ている。
「どうして」
かすれた声で笠奈がつぶやく。どうしてって、好きになるのに理由なんかない。私は律儀に答えそうになるが、口をつぐむ。私は息を潜め、髪が絡まった笠奈の指先を見つめている。爪には何も塗られていない。アメリカに行ったららマニキュアを塗るのが面倒になったのだろう。
「彼氏いるって、言ったよね?」
「うん。でも、そういうのって関係ないんじゃない?」
「そうだけど」
笠奈はため息をついた。動かしているのは口だけだ。気のせいか、さっきより鼻が赤くなっている。ひょっとして泣いているのかと思い、慎重に首を動かして、目尻を覗きこむが、泣いてはいない。
ともかく、私の言葉を受けて、笠奈はハッピーにはならなかったようだ。だんだんと、笠奈を苦しめているような気がしてくる。苦しんでいるのは何故か。おそらく、私との関係が終わるからだ。気軽に声を掛け合える飲み友達。夏になったら、また悪乗りしてお台場にドライブする。しかしそれは、友達だからできたことだったのだ。私は、笠奈のことを好きになってはいけなかったのだ。

ごめん、と言おうとしたタイミングより一瞬早く、笠奈の次の言葉が発せられる。
「私の彼氏って、誰だか知ってる?」
「知らないよ」
「君も、知ってる人だよ」
「葉村?」
「ちがうよ」
「木島?」
「馬鹿じゃないの?」

兼山さんだよ。笠奈は手を下ろし、真っ赤にした目をこちらに向けながらそう言った。そんなの最初からわかっていた。

十字路(11)

年が明けて塾内の受験ムードが高まり、兼山の態度もぴりぴりしてくる。ここで結果を出せるかどうか、彼にとって正念場なのだろう。わかりやすすぎる。二階堂が成績表を机に広げた兼山に怒鳴られる場面があったが、それすらも我々に対するデモンストレーションに見えた。それなりに迫力はあるが、やはり子供が駄々をこねているようにしか見えない。

笠奈の生徒にも受験生がいるため、切羽詰まった雰囲気が出ている。少しやつれたように見える。夏頃はきれいに染まっていた茶髪は、今は根元が黒く、毛先に向かってほとんど金に脱色され、痛んでいる。冬になって伸びた髪がコートにぶつかるせいだ。笠奈は真っ白なダッフルコートを着て、紫色のマフラーを巻いている。

笠奈とは年が明けてから飲みに行ってはいない。最後に会ったのは、クリスマスの3日前の土曜日だった。恋人の存在が明らかになった後も、笠奈は何事もなかったように私を誘った。私も何も言わなかった。私たちは最初からただの飲み友達だった。クリスマスについて議論する余地は全くない。

たまたま入ったいつもと違うキッチンバーは、暖色系の照明が弱くて薄暗く、変にムードがあってそれが私を参らせた。周りには何組かの男女がいて、今年のクリスマスは平日の真ん中だから、今日に振り替えて愛を深めているのかもしれない。ここで適度に酔っ払った後は、ホテルに流れてお互いの体を心ゆくまで貪り合うのだろう。

笠奈はクリスマスは家族と過ごすらしい。「どこでデートするの?」と聞いてみると、その日は母親の仕事が遅くなるために、代わりに夕飯を作らなければならないとのことだった。家には父親と、弟とおじいちゃんがいた。でもそれは、クリスマスイブのことで、だったらクリスマス当日という代替日というか本命日があるわけだから、じゃあそっちは?としつこく聞くと「まあ仕事なんじゃない?」と他人事みたいに答えた。

「そういえばこの前借りた本、返すね」
そう言って笠奈は小さな紙袋を渡してきた。中には文庫本が2冊入っている。村上春樹の「ノルウェイの森」の上下巻である。以前私が小説を読むと話したときに、貸してくれと頼んできた物だった。私は貸すときは何も考えずに本だけを渡したが、紙袋に入れられるとプレゼントみたいな感じがする。
「どうだった?」
ノルウェイの話かと思ったらそうじゃなかった」
「最後まで読めた?」
「読めたよ、お母さんも読めた」
「お母さん? お母さんにも読ませたの?」
「うん」
「じゃあ面白かったの?」
「面白いというか。でもこの主人公、君にそっくりだね」
「うそだよ、俺はこんなに気障じゃない」
「うん、そうなんだけど、なんか、似てる」
「お母さんも似てるって?」
「お母さんは君のこと知らないよ(笑)」
私も笑った。
「お母さんはね『この主人公は誠実だ』て言ってた」
「すなわち、俺も誠実ってことだね」
「それはどうだろう」
笠奈は半笑いで目をそらした。
「なんで? こんな誠実な男、他にいないでしょ?」
「はいはい、そうでした」
笠奈の前では否定したが、それでも小説の登場人物に似てると言われるのは悪くない気がした。自分の好きな小説なら尚更である。「ノルウェイの森」は大学時代にいちばんよく読んだ小説である。鞄に入れ、授業の合間に適当なページを開いて読んでいた。

私はビールのおかわりを注文した。笠奈の催眠術にかかって以来、お酒の飲み方を注意し、しばらくビール以外を飲まないようにしている。笠奈は相変わらず脈絡のない飲み方で今日は焼酎を飲んでいる。全く酔わない女である。何かの拍子に笠奈が笑うと、夢のことを思い出す。笠奈が狂ったように笑いながら、私をしきりに挑発してきた。何から逃げているのかと聞いてきた。笠奈の手がテーブルに当たったりすると、反射的に体が硬くなる。いつのまにか夢に入り込んだのかと警戒する。

実際の笠奈の笑い方は、夢で見たものとは違って、それ程派手ではない。笑い声が大きくなると、口元に手をやる。癖なのだろう。それに伴って顔はうつむき、下がった前髪が目を覆い、抗うように真っ黒なまつ毛が際立つ。まつ毛だけが何にも染まっていない、笠奈そのものの色だなあなんて思う。笠奈の頬が下がり、口元が元のポジションおさまると同時に、笠奈はこちらに目を向ける。私は笑顔を注視していたわけだから、当たり前のようにまともに目が合う。すると「なに見てんだよ」とか言って、丸めた紙ナプキンを投げつけてくる。


受験が目前に迫ったということで、私のメインの生徒も多少の緊張を見せていたが、1月後半の推薦入試で、あっさりと合格を決めてしまった。推薦入試には筆記はなく、内申点と面接で合否が決まるので、私としては肩すかしをくった気がした。もちろん内申点は普段の成績で決まるのだから、塾で教える行為全てが無駄とはならないのだが。兼山は、完全に私達の事を野放しにしていたくせに、自分の子どもが合格したかのように笑顔満面で喜んでいた。兼山の後ろの壁にはどこから見つけてきたのか、特大の御守りが2つ下がっている。私は意味もなく「兼山さんでも神頼みですか」とつっかかりたくなる。

1月の授業はあと1回残っていたが、もうすることもないので席に着くなり「そういえば、お前って彼女いるんだっけ?」と聞いてみた。生徒は「いるよ」と答えた。2年の終わり頃から付き合っているそうだ。その辺りの説明をする時に、躊躇する様子はまるでない。のろけているという感じもなく、淡々と私の質問に答えていく。写真とかとかないの?と聞くとポケットから携帯電話を取り出し、電池カバーを外して、裏側に貼ってあるプリクラを見せてくれた。ショートカットで少しぽっちゃりしていて、あとはシールが小さくてよくわからなかった。
「かわいいじゃん」
「普通かな」
「高校は?」と聞くと、別々の学校へ進学するらしい。彼女の方は隣町の女子高を志望している。「一緒の所行かないんだ?」と聞くと、本人もどうしてこんなことになったのか事態が飲み込めないような顔をして「行かないんだよね」と答えた。
「だからさ、今度の卒業旅行が最後なんだよね」
「どこ行くの?」
「お台場。ディズニーランドのほうが100倍いい」
「卒業旅行なんて、どこ行こうが一緒だよ。行き帰りのバスを楽しむんだから」
「俺も夏に行ったよ。そういえば」と私は付け加えた。
ジョイポリスとか楽しいの?」
「夜中だったから、どこもやってなかった」と答えると「なんで夜中にあんな所行くんだよ」大声で笑われた。私は、指を口に持って行き静かにするように注意すると「勢いだよ」と言って笑った。そして「昼間なら楽しいって、誰かが言ってたよ」と付け加えた。

その話で、授業の時間がほとんど終わり、あとは放置して、先に報告書でも書いてしまおうかと思っているところで「てか先生は?」と聞かれた。私は「好きな人ならいるよ」と答えた。
片想いなんだけどさ、そろそろ告ろうかと思って。そう言うと「じゃあがんばんなよ。俺応援してるから」と生徒は笑顔で言った。左手で机の上の携帯電話を押さえていた。

十字路(10)

帰り道は2人とも自転車だった。秋が深まって風が冷たくなり、ジャケット1枚では肌寒い。昼間との寒暖差が大きく厄介な季節だ。「酔いも覚める」と2人で文句を言いながら向かい風に自転車を走らせた。暗闇の中で落ち葉が舞っている。n号線に出る交差点で信号に捕まった。
「てかさ、こうやって2人で飲んでて、彼氏とか怒らないの?」
「うーん」
笠奈の恋人の有無について聞くのは初めてだった。が、2人で飲んでいても、笠奈の携帯はよく鳴り、時には私の目の前で、手早くメールを返している時もあった。
「もしかして俺と飲んでるのは内緒にしてるの?」
「まあ言ってはいないけど......」
笠奈には珍しく、歯切れが悪い反応をする。私は北風に紛らせるように、息をつく。耳が冷たい。歩行者信号は速やかに青に変わって欲しい。ここに立ち止まっているのは嫌だ。

笠奈にとっては、単に飲み友達が欲しかったというだけの話だ。できれば異性の。普通に考えれば、恋人がいるのに男と2人で飲みに行くということはあまりしない。邪推をすれば、もしかしてちょっとした倦怠期に入り、刺激が欲しいのかもしれない。寂しさを紛らわすと同時に、相手を心配させたいのかもしれない。

「彼氏ってどんな人?」とか「やさしい?」とか陳腐な質問を繰り出したいところだったが、笠奈が言いづらそうにしているので、黙っていることにした。笠奈の自転車の籠には、茶色いバッグが入っていたが、ふと見ると隙間から青緑の光が漏れていた。メールか電話か、何かを受信したのだろう。笠奈はそれに気付かないふりをしている。正面を向き、道の向こうの小さな祠を見ていた。子どもの頃からあるもので、岩の部分は年月によって削られ、全体的に丸みを帯びている。n号線がどれくらい古い道路なのかは知らないが、この場所で何か良くない事が起こり、それを鎮めるために建てられたのだろうか。

そのうちに信号が青に変わり、私たちは同時にペダルを漕ぎ出した。車道の方が少し盛り上がっているためにペダルは重く、最初の何メートルかはふらふらする。


「好きな人とかいる?」
その翌々日の授業の時、ミキちゃんに聞いてみた。いい加減はっきりさせたかった問題だった。
「え? 何ですかいきなり」
「今日ミスが多いから、好きな人のこと考えてるのかなーって」
そんなのは全くのでたらめで、たまたま図形の応用問題をやっていたから、間違いが多かっただけである。ミキちゃんは一度机に置いた黄色いシャーペンを手に取り、右手でペン先を持つと左手を軽く叩いた。ぺちぺちという音がして、何かをカウントしているように聞こえた。そして「いるよ」と私の方を見て言った。
「ていうか、付き合ってるんだ、サッカー部の人」
残念ながら私はサッカー部ではなかった。中学の時に、テニス部に入ったが顧問が嫌いで半年でやめた。運動全般が得意ではない。
「いいね。サッカー部なんてかっこいいじゃん」
私はショックを受けたが、同時に安堵もしていた。「まだ付き合って2週間なんだけど」
ミキちゃんは右の耳たぶを触りながら教えてくれた。ピアスも何もついていない、純粋無垢な耳たぶだ。触りすぎたせいか、赤くなっている。
それから、サッカー部の彼のパーソナル情報を聞きまくり、私も男心についてレクチャーした。彼は隣のクラスで、とりあえずつき合っているのを知られたくないから、帰り道はとりあえず別れて、後から彼がミキちゃんの家のそばまでくるらしい。薄暗い中、近くの公園で話をする流れだそうだ。

休憩時間が終わったので、そのまま授業を再開しようとしたら、やはり今度はミキちゃんの方から
「先生は?彼女とかいないの?」
と聞いてきた。何のお作法かは知らないが、この手の話をすると「じゃあそっちは?」となるのが常だ。
「いないよ。ていうかこの前振られちゃった」
実際に振られたわけではないが、もうそれでいいと思っていた。ミキちゃんは、困ったような顔をしたので「まあそうなると思ってたから仕方ないよ」と笑って言った。
「じゃあさ、笠奈先生と付き合っちゃえばいいじゃん。笠奈先生は先生のこと好きなんじゃないかなーって思うんだよね。私もお似合いだと思う」
「え?」
同じ教室内に笠奈もいるので、私は一瞬ひるんだ。ミキちゃんはお構いなしに一気にテンションを上げ、
「先生がいいなら私も協力してあげるよ」
とまで言い出した。黄色いシャーペンを指示棒のように振り回し、さっそく作戦のひとつか2つをプレゼンしそうな勢いだ。その様子から、ミキちゃんが前々から、私と笠奈が付き合うことを望んでいるんだと悟った。私は苦笑いするしかなかった。

十字路(9)

それから、笠奈と2人で飲みに行くのが頻繁になった。月に1、2回程度。初めのうちは、飲んだ後、もしかしたらホテルに流れることもあり得るかと、コンドームを財布に忍ばせたりしたが杞憂に終わった。木嶋や兼山にまつわるくだらない話や、ミキちゃんに関するシリアスな話をしながら酔っ払ってバイバイするのが常だった。作戦会議なんてまともなものが開かれるわけがなかった。

普段から塾でも顔を合わせているのだから、今更わざわざ一緒に飲む必要なんてない気もしたが、兼山に気兼ねせず、座って話せるのは気楽だった。一度店に入れば、短くても2時間はいられる。私も焦ってどんどん話をする必要もないし、笠奈も普段よりゆったり喋ってる気がした。甘えたような声になる時もある。酒が回ってくると、両肘をついて、ほとんど金に近い髪に指をくるくる絡ませるのが癖だった。目もうつろになってくるので、眠いの? と聞くと「眠くない」と目を見開いて、こっちを見るのがお決まりのパターンだった。私はその瞬間が好きだった。

笠奈は大学では教職を取っていて、英語の教師になるのが夢というか、目標だった。母親が学生時代に、イギリスに留学していて、幼い頃から英語に親しんでいた。何か喋ってよ、と言うと「ハロー」と手を振ってきた。確かにそれっぽい発音だったが、私は馬鹿にされたような気がして、笠奈の「ハロー」をふざけて真似したら、頭を叩かれた。

チャンスがあれば、自分もアメリカかオーストラリアにホームステイがしたい、と笠奈は語った。大学内で、そういうカリキュラムがあって、定員に入れれば行けるらしい。費用はこっちで持たなければいけないので、親に話をつけてあるが、こちらでも少しは負担しようと思いバイトを始めたのだった。それで見つけたのが今の学習塾であり、教師を目指す笠奈としては、子どもに勉強を教える経験にもなって、一石二鳥となる。
笠奈はそんな話をなんでもない事のように話した。たまに煙草に火をつけて、煙を横に吐き出しながら。煙草の銘柄はキャスターだった。白の刺しゅう入りの入れ物と全くデザインが合ってない。禁煙の話はもうしない。

「でもそんな髪の色だと教師って感じしないよね」
笠奈に煙草を1本もらい、火をつけながら言った。煙草はひどくまずい。
「だって今だけじゃん。こんな風にできるの」
笠奈は前髪をつまみながら真面目に答えた。おでこにシワが寄る。上目遣いになって広くなった白目は、若干赤い。

飲み会を数回重ねるうちに、私は笠奈に引け目を感じるようになった。笠奈を知れば知る程、最初の印象とは違ってきた。高校時代は、陸上部で県大会3位に入ったこともあるし、大学ではボランティアサークルに入り、障害児の面倒を見ている。一方の私は語るべきもない大学生活を送り、そして卒業した今でもまともな職につこうとしない。かつて就職活動のときには会社のためにがんばるなんて理解ができなかったが、がんばる対象が見つからないのは不幸だった。
「もうすぐTOEICがあるからね。今日は図書館でずっと勉強してたんだ」
私も授業でTOEICを受けたことがあったが、おぼえているのはTOEICは白紙で出しても0点にならないということくらいだった。あと講師がリーゼントで怖かったくらい。

笠奈はファジーネーブルさくらんぼをつまみ上げて、片肘をつき、ぼんやりとそれを眺めている。眠くないと言っていたが、疲れてはいるのだろう。昼間訳した英文を、頭の中で反芻しているのかもしれない。今日は私から声をかけたから、もしかしたら笠奈的には、あまり気乗りしなかったのかもしれない。

何故そんな事を考えてしまうのか。私も酔っ払っているからだろう。大丈夫。ちゃんと自覚している。目の前にいる笠奈に、私は自分を投影しているのだ。本来あるべき自分。こうであってほしい自分。笠奈の姿をした私が、尋ねてくる。
「あなたはこの先どうしたいの?」
「わからない」
と私は答える。だが、それは嘘だ。私にはわかっている。そして当然ながら、目の前の笠奈にもそれはわかっている。だってそれは自分なのだから。このまま黙っていたら「本当はわかってるくせに」と馬鹿にされ、見下されるだろう。どうにかそれを防ぎたくて、私は何か目先を逸らす言葉を探す。
「どうしたいか? ......そうだね、例えば君と寝たい」
笠奈が吹き出す。普段は見る事のできない、酔っぱらいのする下品な笑いだ。目を細め口をすぼめ、手を振り回す。指先がテーブルにぶつかり、その拍子に持っていたさくらんぼが手からこぼれ、笠奈の目の前の受け皿に落ちる。それは、さっきまでサラダが盛られていたが今は空で、和風ドレッシングの残っているだけだ。その和風ドレッシングの水たまりの真ん中にさくらんぼは着水し、跳ねた水滴の1つが笠奈のクリーム色のカーディガンについた。笠奈はまだ笑っていて、そのことに気付かない。私も教えてやるつもりはない。
「私としたいなら、してもいいよ。でも、でっきるかな~?」
身を乗り出し、バラエティ番組みたいなノリで、笠奈が挑発してくる。こちらが前かがみになれば、口づけのできる距離だ。私は僅かな笑みを浮かべ、笠奈の目をまっすぐ見て、可能な限り落ち着き払った口調で答える。
「できるよ」
「無理だって」
笠奈は座りなおして背もたれに寄りかかり、煙草を1本取り出して口に加えようとする。が、指先が震えて落としてしまう。そのまま顔を下に向ける。肩が震えている。笑っているのだ。段々と震えは大きくなり、笠奈はついに声を出して笑い出す。一度笑い出すと、歯止めが効かなくなったのか、音量がどんどん上がっていく。机をどんどん叩きが、ファジーネーブルの細いグラスが倒れる。テーブルの上にはサラダと唐揚げとマグロのユッケの皿があってその隙間を黄色い液体が流れていく。酔っ払いめ。私はすぐに店員に布巾を持ってきてもらおうと声を出すが、笠奈が静止する。
「君は、だからダメなんだよ」
「意味わかんねーよ」
「私が好きなら、24時間いつだって私のことを考えなきゃダメだって。君は体裁を考えすぎ。一体、何を気にしてんの? 何から逃げてるの?」
「逃げてない」
「逃げてる」
「逃げてない」
「じゃあそれでいいよ」
「逃げてるのそっちじゃねーか」
いつのまにか私の声も大きくなっている。いったん気持ちを落ち着けるためにトイレに行きたいが、それこそ逃げているみたいで動けない。上を見上げると天井からつり下がった照明の笠が大きく揺れている。笠奈がふざけて揺らしているのだ。いい加減にしろよ、と注意しようと笠奈を睨むが、そこに笠奈はいない。トイレにでも行ったのか。辺りを見回そうとすると何かが顔にあたる。

「寝ちゃった?」
気がつくと笠奈が私の顔を覗き込んでいる。その気になれば、口づけのできる距離だ。事態が飲み込めない。テーブルの上には皿や飲みかけのグラスが、何事もなかったかのように並んでいる。店内には、低い音量でジャズが流れている。店内は空いている。店員は何事もないように行ったり来たりしている。

ファジーネーブルも、細長いグラスがどこまでも頼りなく見えるが、倒れてはいない。さくらんぼは笠奈の手からぶら下がって、左右に揺れている。クリーム色のカーディガンには、染みひとつない。
「本当に寝ちゃうとは。今こうやって、『催眠術~』てやってたんだよ」
そう言って笠奈はさくらんぼを私の鼻先に、押し付けてくる。さっきもそうやって起こしたに違いない。
「飲みすぎちゃった? それとも、疲れてるのかな?」
私の記憶では、笠奈の方がぼんやりしていた。なのに今ははしゃぎまくっている。子どものように、と形容したいくらいに。信じられないことだが、私は笠奈の目の前で寝入って、夢まで見ていたのだ。私は、疲れているのだろうか。

笠奈はメニューを取り出し、デザートを物色している。大学芋かバニラアイスかで迷っている。右手には、まださくらんぼがあったが、私はそっと手を近づけるとひったくり、間髪入れずにそれを口に入れた。

十字路(8)

二学期になって、最初の授業の終わりに兼山に声をかけられ、ミキちゃんのことを受け持つことになった。数学と理科。
「お前どちらかと言えば、理系だよな?」
と、一応は疑問系の体裁で聞くが、こちらの意見を聞くつもりがないのは明らかだ。新たにもう1日バイトが増えてしまった。笠奈が二学期から、新しく入った生徒を担当することになり、手が回らなくなったとのことだった。
「本当は男の講師が女の子を見るのはあんまりよくないんだよね」
とため息まじりに兼山がひとりごちる。私の責任とでも言いたいのだろうか。思わず「それなら俺じゃなくていいです」とつっかかりたくなる。背が低く、ぽっちゃりしていて童顔。明るい水色のストライプのワイシャツを胸元で開け、中で金のネックレスが光っている。肉厚の手。フライパンで焼くなら、わざわざ油を敷く必要はなさそうだ。右手の小指、左手の中指と薬指に指輪をはめている。どれも大げさなデザインで、指がより短く見える。薬指、てことは結婚をしているのだ。こんな男でも結婚ができるのは不思議だ。私にはわからない良さというか、魅力があるんだろうか。金とか。金に釣られて好きでもない男と一緒になる女は、愚かなのだろうか。

話の途中で笠菜が奥から出てきた。もちろん笠奈は、私のために出てきたわけではなく、授業の終わった生徒を見送るために出てきたのだ。兼山のデスクは、出入り口のそばにある。生徒がドアを開けたタイミングで、兼山は「さようなら」と声を張る。兼山は大声を出すと声が裏返る。笠奈もお姉さんみたいな顔をして「今度は宿題忘れないでね」なんて声をかける。自分なんか、禁煙もまともにできないくせに。そういえば笠奈を見るのは、あのお台場の夜以来だ。笠奈にあげる予定だった牛乳は捨ててしまったし、予備で買ったお茶も、結局は自分で飲んだ。長電話の後、笠奈は明らかに疲れた表情をして、帰り道は静かだった。

「ミキちゃんの話してたのかな?」
笠奈は私と兼山の顔を交互に見て聞いてきた。口ぶりから私に聞いてきたのかと思い、返事をしようとすると、兼山が先にそう、と答えた。
「あとはミキちゃん側に伝えるだけ。本人には、お前から先に言っておいて」
「はーい」と笠奈が軽い調子で答える。何故こんなにフレンドリーなのか。兼山は、女講師に対しては冗談も言うが、それでも講師の方からタメ口をきく者はいない。もしかしたら、お台場での電話の相手は兼山で、2人は不倫関係にあるのかもな、と私は勘ぐる。勝手に兼山に怒りを覚える。
「じゃあ、来週の水曜日から、お願いします」
そう言って、笠奈は深々と頭を下げた。仕事のことだから、ちゃんと礼儀を踏まえたのだろう。もちろんそのような笠奈の態度に、私が傷つかないはずがない。


ミキちゃんとの授業は夏期講習と全く同じ雰囲気で始まり、授業での再会を、ミキちゃんは手を叩いて喜んでくれた。夏休みは黒い髪を下ろしていたが、今は赤いゴムでまとめ、少し幼い感じがする。夏休みの宿題はちゃんとやった? と聞くと、理科と漢字のワークがまだらしい。「笠奈先生には言わないでね」と小声でお願いしてくる。夏期講習が終わった後のマクドナルドで、笠奈にミキちゃんはあなたのこと好きかもしれない、と言ってきたのを思い出す。笠奈はお台場の道中で「私はミキちゃんの好きな人だって知ってるんだからね」と騒いでいた。

笠奈は責任感からか、授業が終わり、ミキちゃんを送り出す時には必ずついてくる。笠奈の方が早く授業が終わるから、タイミングとしてはちょうどいいのである。それでも1時間近く待たなければならない。
ミキちゃんを送り出すのはすぐに終わるから、その後少し2人で話をすることになる。建物に戻れば兼山がいるので、私はその場で話したいと思う。まだ、9月の前半で、そこら中で虫が鳴いている。汗をかくほどではないが、中と比べれば明らかに不快な状況だが、時には30分近く喋ってしまうこともある。ミキちゃんの話題が多いが、夏期講習の時のように監督ぶって進捗具合を報告させるわけではない。それどころか逆に、自分の授業の時にミキちゃんと喋ったことや、そこから発展して彼女のキャラや、家庭のことを教えてくれた。ミキちゃんは3人兄弟の真ん中で、上には高校生の兄、下は幼稚園に通う妹がいる。妹は自閉症で、滅多に笑わない。そのせいで母親はノイローゼになり、最近抗鬱剤を飲むようになった。それ以前に両親はバツイチ同士の再婚で、兄と父親とは血のつながりがない。妹は再婚してからの子だ。ちょうど思春期だし、父親とも距離ができて戸惑っている。

翌日私は早速図書館へ行って自閉症についての本を調べるが、学術的な話ばかりで全く役に立ちそうもなかった。何かしらミキちゃんのためにできることはないかと思ったが、そんなことより普段通りに接して授業の間は家族のことを忘れさせてあげるのがベストだと思った。

しかしある時、ミキちゃんの方から「先生、自閉症って知ってますか?」と聞いてきた。ミキちゃんの方を見るとまともに目が合った。真剣な表情になると、一気に大人っぽくなる。黄色いシャーペンの真ん中を大事そうに両手でつまんでいる。
「聞いたことはあるよ」
「うちの妹、幼稚園行ってるんだけど、自閉症なんだ」
「そうなの?」
「全然笑わないし、話しかけても全然反応ないし。ちっともかわいくない。幼稚園でもいじめられてるみたい」
「本当に?」
「うん、なんか蹴飛ばされたりするんだって。先生も、可愛くないからほっといてるみたい」
「可愛くないって......」
正直なんと答えていいのかわからない。反射的に母親と血のつながりがない上に、その母親が抗うつ剤を飲んでいる、という笠奈の話を思い出した。
「あ、こんな暗い話してごめんなさい。ていうか、もう休憩時間過ぎちゃったよね?」
私が曖昧な態度をとったせいで、結局ミキちゃんの方から話は切り上げられてしまった。時計を見ると確かに10分が過ぎている。塾内で休憩については、特に明確な決まりはなく、各講師の裁量に任せられている。私は90分の授業の中で、休憩を2回とることにしている。何分たったら、と細かく決めているわけではなく、その時のムードで決めている。なので、緊張感がほしいときはわざと短めにするし、お喋りが盛り上がれば平気で10分を超過する。どちらにせよ生徒の方から休憩を終わらせようと言ってくる事はまずない。

「俺じゃ何の役には立たないけれど、もし話したいって思ったらいつでも言ってね。別に休憩のときとかじゃなくていいよ。ミキちゃんが抱えてることって勉強よりもずっと大事なことだと思うから」
授業を早めに切り上げて、私はそう伝えた。私はミキちゃんに向けて座り直し、顔を見ながら言ったがミキちゃんは前を見たままシャーペンをいじっていた。2つ結びの髪が頬に垂れて表情は見えなかったが、しっかり聞いているのはわかった。
「ミキちゃん、絶対にひとりで抱え込まずに、誰かに話してね。学校の先生でも、笠奈先生でも誰でもいいよ。あと、俺に話してくれてありがとう」
ミキちゃんはそのまま立ち上がってお辞儀をすると、早足で教室を後にした。

「あれ? ミキちゃん帰っちゃったの?」
いつものように玄関に姿が見えないので、笠奈が私の席を覗いてきた。私は笠奈を自分の隣に座らせると、腕組みをしながら今日の出来事について話した
「ミキちゃんはさ、君のことが好きなんだから、どんどん話聞いてあげた方がいいと思うよ」
「そうなんだけどさ」
私はアドバイスなんかより、自分の無力さに対して同情が欲しかった。私のさっきの言葉はミキちゃんにとっては何の救いにもならない。笠奈は何もわかっていない。アドバイスも大ざっぱすぎる。
「ていうか、今度の土曜って暇? 飲みに行こうよ。作戦会議!」
私の暗い顔を覗き込みながら笠奈はそう言ってきた。ミキちゃんと同じように前髪が頬に垂れ下がっている。笠奈の誘いは嬉しかったが、それでも私は罪悪感を抱かずにはいられなかった。

十字路(7)

最初に根を上げたのは、二階堂だった。笠奈が「なんか二階堂ちゃん、気持ち悪いみたい」と後ろから報告してきた。葉村は「了解」と短く答えたが、何をする風でもなかった。すでに環状線に入ったところで、こんな所でどうすればいいんだ、と思ったが、しばらく行くとパーキングがあり、そこに葉村は車を入れた。

女2人はすぐにトイレへ駆け込み、私たちは特にすることがなかった。とりあえず車を降り、缶コーヒーを買って空を見上げた。随分久しぶりに見た気がする。照明が貧弱で、ゴミゴミして汚いパーキングだった。壁の向こうを車が通過する度、壁がびりびりと震える。必要最低限、という感じがした。

「首都高は、普通の道路の上にそのまま作っちゃいましたからね。無茶苦茶ですよ」
と葉村言って、私は「ここはどの辺り?」みたいな返事をして、そう言えばこいつと1対1で話すの初めてだなあと考えているうちに、二階堂は戻ってきた。当たり前だが顔色は悪い。隣の笠奈も深刻そうな顔をしている。私が「大丈夫?」と聞くと「大丈夫」と答える。それしか答えの選択肢はない、と言った感じだ。もう帰ろうぜ、と言いたくなるが、さすがにここから引き返すのは不可能だ。外気に触れて一気に酔いはさめ、全員変な使命感を持ってだまっている。

「そろそろ行きましょうか」
と二階堂が号令をかけ、再び車は走りだす。周りにそびえ立つビルの数が増え、無理に思えば空中を走っているように感じなくもない。普通の道の上に作ったという葉村の言葉を思い返す。様々な車が横を追い越していく。
「週末なんで、やっぱり多いですえ、走り屋」
葉山は二階堂がダウンしても、特に声のトーンに変化は見られない。後部座席は無言。もしかしたら眠っているのかもしれない。

それでもレインボーブリッジに差し掛かり、観覧車が見えてくると再び笠奈がはしゃぎ出す。
「お前寝てたろ?」
「寝てないから。そう言えばお台場の観覧車って乗ったことある?」
「ないよ、水族館なら行ったことあるけど」
「何それ、知らない」
「お台場って海でしょ? 埋め立て地で。幕末に大砲があって」
小学校の時に祖母に連れられてきて、そう教わった。
「知らない」
「で、どうなの? 観覧車、乗りたい?」
「うん、まあ」
そう答えるしかない。喋ってるのは私と笠菜だけだ。観覧車はこの時間には動いていない。今度、という意味なのか。

高速を降り、程なく走った所で目的地についた。営業している店はコンビニくらいしかなかったが、それでも人はそれなりにいて、なんとなく祭りの後という感じがした。桟橋に立ってみたが、潮の香りがしない。岸辺にぶつかる波音も、耳を澄まさなければ聞こえない。
「着きましたねえ」
と葉村が言って、みんなで「お疲れ様」と声をかけあった。随分久しぶりに海を見られたが、お台場は目的地と言うにはあまりに何もなかった。ただのドライブの折り返し地点という感じである。人はたくさんいるが、こんな遠くから来たのは私達だけではないのだろうか。仕方が無いので海沿いをぶらぶら歩き、途中でトイレがあったので、そこで用を足す。気が済んだところで、じゃあそろそろ帰ろうかムードになった所で、突然笠奈の携帯が鳴り出す。今のテンションを完全に無視した陽気な着メロで、疲れがどっと出てくる。この電話が終わったら帰る、と全員が思った。

笠奈は私たちの輪から離れ、奥の街灯の前で話し込んでいる。そのせいで、各自自由行動みたいな雰囲気になり、二階堂はベンチに座り、葉村は海の方へ行って手すりにもたれかかった。私は雑木林の方へ歩いていくことにした。笠奈は電話が終わったら、私にかけてくるだろう。海から離れると公園のようになっていて、私は木々や芝生の間の道をあてもなく歩いた。やがて通りへ出て、向かいには、明かりの消えたショッピングセンターのビルが見えた。1階の端にはコンビニがあり、そこだけは営業をしていた。私は道路を渡ってそこへ行き、葉村にはコーヒー、二階堂には水、そして笠奈には、少し迷ったがパックの牛乳を買った。完全にミスチョイスだが、それで笑いをとろうと言うのである。一応自分用にはお茶を買い、もし笠奈が本気で怒ったらそれをあげればいい。

ぶつぶつ文句を言いながら、牛乳をストローでちゅーちゅーする笠奈を想像ながら、来た道を引き返す。もしかしたら私のことを探しているかもしれないと、少し早足になったが、3人には全く同じようにそこにいた。海辺の葉村にコーヒーを渡し、二階堂の隣に座って、水を差し出す。二階堂は「ありがとうございます!」と言ってバッグから財布を取り出そうとするが、もちろんそれを止める。一応私が年長者なのだ。「大丈夫?」と聞くと「はい!」と声を張って返事をした。回復をアピールしているかのようだ。数メートル先には、笠奈の背中が見える。街灯に手をついて当分終わりそうにない。私は二階堂にお台場に来るのは、小学生以来だということを打ち明けた。
「思ったよりも遠いんですよね。昼間来るともっと楽しいんですけど」
「じゃあなんで来たの」
「実はわたしも夜来るのは初めてなんです」
「え?」
「なんとなくノリで来ました」
「ノリかよ」
「ノリです」
「お台場は元々埋め立て地で幕末には大砲を......」
「知ってます。ペリーですね」
二階堂はそう言うと私のあげた水を開けてごくごく飲んだ。笠奈を見ると電話はまだ終わっていない。いい加減、街灯と背中も見飽きた。笠奈は白いワンピースに、デニム地のカーディガンを羽織っている。スカートから伸びた足が、たまに位置を替える。
「ていうか、笠奈のやつ、いつまで喋ってんだろ?」「ですね」
「誰と喋ってんだか......」
二階堂は、ふふふと笑った。私の言い方が、オヤジっぽくて笑ったのだろうか。それとも、電話の相手が誰であるとかを知っていて笑ったのだろうか。
「まあなんでもいいけどさ」
私はベンチを立ち、海へ向かって歩き出す。笠奈に背を向け、二階堂にも葉村にも見えないところまで来ると、袋から牛乳を出し、パックを開けて中身を海へあけた。白い液体が、どんどん黒い海に吸い込まれていく様を見たかったのだが、水面に付く前に闇に紛れ、思っていたような光景は見られなかった。

十字路(6)

葉村の車は、私の車のすぐそばにあった。駅前でなおかつ夜中でもタダで停められる駐車場なんて、限られている。シルバーのプリメーラ。聞いてもいないのに「親の車なんすよ」と言ってきた。本人の車だとしたら、私が憤慨するとでも思ったのだろうか。それより気になるのは、葉村がどのくらい酔っているのかという問題だ。思い返す限り、私と同じくらい飲んでいた気がする。生ビール中ジョッキで2杯、その他チューハイ2杯くらい。葉村のアルコール耐性については、今日が初見なので、判断のしようがないが、仮に私なら、運転できないことはないが、遠くまで行く気にはならないというレベルだ。お台場なら普通に2時間はかかりそうだが夜中ならもっと早いのか。しかも笠奈の思いつきで決行となったが、大丈夫なのだろうか? 自然と男が前、女が後ろ、となった席順で、私は隣の運転手に
「てか、大丈夫なの?」
と率直に聞いてみる。
「あ、大丈夫ですよ。そんな飲んでないです」
軽い。本人が大丈夫、というのなら、大丈夫なのだろう。なんて思うのは、私も酔っているからだろうか。

ほとんどひと呼吸で、n号線へ出る。片手ハンドルで運転する葉村はなんだか頼もしい。おそらく車の運転が好きなんだろう。大して会話もしないまま、一気に街外れまでくる。ちょうど私の家のすぐ近くだ。街の外は、私にとっては未知の世界だ。というのも、私が車を運転するは、だいたいは市内で、都内に行きたかったら電車を利用する。今通過しているのは、私の家からわずか数キロの町だが、私にとっては別の惑星にも等しく、目に映る光景が新鮮だった。このW町は田んぼばかり広がる農村地帯で、夜中で荒涼とした感じは想像上の火星の表面を連想させる。さしずめ葉村のプリメーラは小型探索機と言ったところか。n号線は、火星唯一の安全航路だ。ここを外れると、どんな危険が待ち受けているかわからない。山の向こうからインディアンが襲撃してくるかもしれない。いつのまに西部開拓時代へワープしたのか。

本当なら窓ガラスに顔を押し付けて、火星人探索に乗り出したいところだが、我慢して、ちゃんと前を向いている。我々の他に走っている車はほとんどいない。少し先に青信号があって、さらにしばらく向こうの信号は赤だ。道はまっすぐで障害物は何もない。車内は、後部座席の女子たちが自分たちだけで勝手に盛り上がっている。私も葉村に話しかける。
「どのくらいかかるかな?」
「1時間ですかねえ」
「そんなに早くつくか?」
本当はどのくらいかかるのが普通なのかわからない。
「まあ週末にしては空いてますし」
そう言って葉山はアクセルを踏み込む。ちょうど速度検知器のゲートをくぐり抜けたところだ。スピードに比例して運転は荒くなる。だからと言って信号無視まではしない。一気にブレーキをかけると、体よりも先に内蔵が前につんのめりそうになる。不快だ。私は身を硬くして、出来るだけ前の風景から目を逸らさないようにして、ブレーキのタイミングを予測するよう心がける。あと、大切なのは楽しい会話。
「二階堂さん」
と私は声をかける。斜め後ろの二階堂は「はいはい」と身を乗り出す。
「二階堂さんて、どこの大学だっけ?」
別にどこの大学だろうが、知ったこっちゃないが、それくらいしか話すことが思いつかないのだ。
「えー。さっきo大って教えてあげたじゃん。もう忘れたの?」
という声が私の真後ろから聞こえる。そう言われてみると、笠奈から、二階堂ちゃんはo大の福祉情報学科だよとか聞いたような気がする。私が福祉情報って何?と聞くと「知らない」と即答されたのだ。笠奈はとりあえず、手短に答える癖がある。私はとりあえず会話のきっかけがほしいだけなのに、どうして出会い頭に鼻っ面を、殴られるようなことをされなければならないのか。笠奈が鬱陶しい。なんて思ったのが伝わったのか、笠奈は突然私の首を締めてくる。笠奈の手は熱くも冷たくもない。ただ柔らかいだけだ。力はこめられていないが、爪を立てている。
「この野郎、二階堂ちゃん口説こうとしてんな」
葉村と二階堂が爆笑している。暴力的になるのも恒例なのか。
「お前、酔っ払ってんの?」
首にかかった手を振りほどこうとすると、笠奈は勢いよく引っ込めた。
「さわんないで」
そう言った笠奈は、今度は二階堂に抱きつく。バックミラー越しに笠奈と目が合う。暗がりで笠奈の目は真っ黒だ。
「二階堂ちゃんはあたしが守ってあげるからねー。あのね、二階堂ちゃん、この人ミキちゃんにも手を出そうとしてんだよ。このロリコン!」
そこまで言われたら、私だって黙ってはいられない。「んなわけねーだろ」
「ていうか、ミキちゃんは、俺の授業の方がわかりやすくて楽しいみたい。それに笠奈はヤキモチ焼いてるんだよね」
「ばか! そんなわけないじゃん。ミキちゃんは私小学6年の時から見てんだからね。好きな人とかだって知ってんだから」
「ふーん。そうなんだ」
「なにその言い方。すごいムカつくんですけど」
「じゃあ2学期から数学は講師変わってもらったら? 笠奈さん、数学は苦手でしょ?」
葉村がこっちの味方についた。反論の言葉の尽きた笠奈はは私の頭を後ろからこづき「二階堂ちゃーん、みんながわたしをいじめる」と泣き声を出してまた抱きつく。

橋を渡った時点で、風景が変わり、ガソリンスタンドやレストランが道路脇に出てくるようになってきた。車の量も徐々に増えてきた。笠奈はさっきまでの大騒ぎで疲れたのか、静かになっている。代わりに今度は二階堂が話を始める。
「葉村さんて生徒さんと恋話したりする?」
「俺の生徒、生意気にも彼女いるんだよね」
「えー」
葉村は「生意気」と言ったが、葉村の生徒は高校生だった。それならまあ、生意気とも言い切れない気もする。「でもそいつの彼女、大学生なんだよね」訂正。やっぱり生意気だ。

私もなんとか話に入りたかったが、そもそも自分の生徒とそんな話をした事がなかった。顔は悪くもないから、恋人の1人や2人いるのかもしれない。今度休憩時間に聞いてみるか。
「ていうか彼女とかいるの?」
といきなり笠奈が割り込んで私に聞いてくる。私は「いないよー」と陽気に答える。「あ、そう」と笠奈はドライな反応を返す。聞いておいてこれか。何か試されていたんだろうか。「彼女は7人いるよ。曜日毎に取り替えるシステムなんだ」という答えでも期待していたのかもしれない。場は一気に白ける。なんだか私が悪いみたいだ。とりあえず「そんじゃ笠奈は?」と聞き返そうとするが、なんとなく躊躇してしまった。

右車線の先に、突然派手なネオンを背負った緊急車両が見え、みんながそれに釘付けになった。「事故かな」と葉村つぶやくと、笠奈も二階堂も身を乗り出してきた。何人かの警察官の先に、期待通りボンネットがぺちゃんこになったセダンが見えた。一台しかいないから、どこかへ突っ込んだのか。運転手は見えない。おそらくすでに救急車で運ばれて、あとはレッカーが来て車をどかすだけだ。後部座席から悲鳴が聞こえ、葉村も「すげーな」と声をもらす。私は砕け散ったフロントガラスに目を奪われるが、そこまで集中できない。この目の前でうろうろしている警官が、突然飲酒検問を始めたらと思うと気が気じゃなかった。まだ出発して30分しか経っていない。葉村たちに気にしている様子はない。二階堂が、そうそう事故と言えばと、先日ショッピングセンターの駐車場で壁に車を擦ったエピソードを披露し、みんなが大騒ぎする。

やがて分岐を知らせる青い表示板が、頭上に頻繁に現れたと思うと、川の下流のように道全体が広がった。巨大な交差点を左折してジャンクションを通過すると、片道3車線の道路になった。もうそこらn号線ではない。果てしなく並ぶブレーキランプの赤が、まさに大動脈を流れる血液を連想させる。流れは緩慢で、葉村は車線変更を繰り返し、できるだけ前のポジションをキープしようとする。それでも頻繁に出現する信号に、何度も足止めを食わされ、車内の空気もそれに呼応するように、重い感じになった。

しばらくその状態が続くとどこからともなく現れた高架が道路の真上にかかり、延々と夜空を塞いでいく。大蛇の腹を思わせる高架は圧迫感を与え、私は再び胸のむかつきを覚えた。緑色の表示が頻繁に現れ、大蛇の正体は首都高だとわかる。

いくつかの入り口をやり過ごし、ようやくT市に入った所で坂を上がり、料金所のゲートをくぐる。葉村の車は、水を得た魚のようにぐんぐんとスピードを上げる。先程までの圧迫感から開放されたのだから、当然爽快であるはずだが、それも最初の数分で、途中からカーブが増えてうんざりした。首都高を走るドライバーは、有料なんだから払った分早く目的地につかねばならない、という切迫感に駆られてアクセルを踏み込む。葉村は結構きついカーブでもブレーキはほとんど踏まない。くの字の赤いカーブ表示が目前に迫る度に、私は肝を冷やした。葉村も表情こそ涼しいが、口数は減り、左手はシフトレバーを強く握り締めている。私は少し後悔し始めていた。