朝考夜書

朝は考え、夜は書く。

十字路(18)

これは国道n号線についての散文である。

意を決して彼女をメールで誘ってみると、特にためらう様子もなくOKの返事がきた。すでに9月も半ばになっている。あの一件以来、電話をしても大した盛り上がりもなく終わってしまう。それなりに楽しく話したつもりでも、電話を切ると疲労感だけが残り、無意識のうちに彼女を気遣っていることを実感させられる。海へ旅行する計画も、いつのまにかなくなった。なんのアクセントもなく8月が過ぎ、暑かったのかそうでもなかったのかもよくわからなくなっていた。

最終週の月曜日に、塾からの給料が振り込まれ、ようやくひと息つけたような気持ちになれた。こちらから特に連絡もしなかったが、二度と関わることはないだろう。塾の人間には、通夜の日以来会っていない。

選んだ店は、私が彼女に気持ちを伝えた居酒屋だった。ちゃんと付き合うようになってからは、一度も来ていない。それでも店はちゃんと潰れずに残っていたし、内装も店員も何も変わっていなかった。なぜかそれが奇妙なことに思えて、無理して変化を探してみた。メニューが一部と、トイレの貼り紙が変わっていた。

彼女と会うのは、ほぼ2ヶ月振りだったが、久し振りと挨拶するのが嫌で、つい3日前に会ったばかりのように振舞った。彼女も私のそんな気持ちを察したのか、第一声で「お腹すいた」と言って、あとは他愛のないことを話した。彼女は夏休みも大学へ通っていた。

知らないうちに、彼女は髪を黒くしていた。この前までは、ほとんど金に近い茶色だったので、会った瞬間は別人のように見えた。長さも随分短くなった。その上紺のブラウスなんか着ているから、いよいよ大人しくて清楚な女に見えてしまう。私は思わず「似合わねーよ」とからかいたくなったが、それを言ったら、やはり久しぶりの再会というシチュエーションとなると思い、口をつぐんだ。

健全な恋人同士なら、ここまで変わった髪型に触れないのは死活問題になるだろう。私は彼女の新しい髪型に対する正直な気持ちを伝え、彼女を喜ばせたかった。そして、信号待ちの時なんかに、さらさらした毛先に触れてみたかった。

でも、やはり言えない。黒く染めるに至った理由とか背景とか、話題がそこに行くに決まっているからだ。もちろん彼女は大きな決意を持って、髪型を変えたとは限らない。だが、私は彼女の黒い髪を見た瞬間、やはり喪に服すという言葉を連想した。そしてそれは、おそらく彼女にも伝わっている。

酒を飲んでいる間はずっと、先週起きた同時多発テロの話をした。アメリカでテロが起きた時、私はベッドで本を読んでいて、ニュースが大騒ぎしていることに全く気づかなかった。彼女の方は風呂上がりで、髪を拭きながら22時のニュースを眺めていたところに速報が入った。その後2機目がビルに突っ込む瞬間を生で見た。ちょうど1機目が衝突した状況を、キャスターが興奮気味に説明している時だった。背後のモニターには、灰色の煙を吐き出すタワーの姿を映し出されていたが、音声はなかった。事故なのか事件なのかもはっきりしない中、別の旅客機が画面の右側から現れ、滑り込むようにビルの横腹をえぐった。飛行機は手品のように影も形もなくなり、一瞬ただそれだけのことかと思ったが、やがてタワーは、2本とも崩壊した。

彼女はすぐに私に電話をかけてテレビをつけさせ「映画みたいだ」と言った。私がテレビをつけると、瓦礫と大量の埃が映し出されているだけだった。彼女の語彙が少ないのか、気が動転しているのか"映画みたい"という言葉は何度も繰り返された。確かにその後、連日流れた2機目突入のシーンは、あまりに鮮明に映り過ぎていて、合成映像のように見えた。

大統領は演説の中で、犯人グループに対する報復を宣言した。日本のテレビ局は、軍事評論家を連れて来て、アメリカの所持する空母とか機関銃とか、そういうことを事細かに説明させた。戦争が始まるらしかった。

私は、やはり自分たちの近況その他の話に及ぶのが嫌だったので、この世界的大事件の話ができるだけ続くように、イスラム教徒が迫害を受けている事を嘆いたり、彼女のホームステイの期間中じゃなくて良かったと喜んだりと、積極的に話題を提供した。聞き手に回った彼女は、ファジーネーブルを立て続けに3杯飲んだ。頬に赤みがさし、アイスを食べたいと言い出した頃には、私の手元のビールが、すっかりぬるくなっていた。
メニュー表を新聞ように掲げ、なかなかデザートを決められない彼女の様子を見ながら、私は2ヶ月前に激しく取り乱した彼女のことを思い出していた。

店を出ると人通りはあまりなく、少し歩くと前にいるのは、しわくちゃのワイシャツの中年サラリーマンだけになった。車を停めたのは不動産屋の先の信用金庫の駐車場で、駅から離れているそこは、夜でも施錠されることはなかった。私は不動産屋に貼られた物件情報を順番にけちをつけ、お買い得土地情報の1番端まで終わると、彼女にキスをした。何の前触れもなかったので、うまく唇が重ならなかったが、ひたすら体を押し付けて彼女が逃げられないようにした。化粧の匂いがする。すぐに顔を逸らされると思っていたら、彼女は力を抜いて、気の済むまでそのままにさせた。予想よりも長い時間、唇をつけていた。

「少し遠回りしない?」
駐車場を出て、少し車を走らせたところで彼女に提案された。その言葉に含まれるだろう彼女の意図その他については、とりあえず考えないことにして、少しでも彼女といられる事実を、とりあえず無邪気に喜んだ。

遠回り以上の指示はないので国道n号線へ出て、南へ車を走らせる。かつて彼女とお台場へ行った時に走った道だ。あの時は火星にでも来た気分だったが、今となると、どう見ても寂れた日本の風景にしか見えなかった。一瞬、その火星エピソードを彼女に披露しようと思ったが、笑える話でもなかったのでやめた。このままぐんぐん進み、彼女の了解を得ることなく、夜の海まで行くことも考えたが、後悔することは目に見えていた。私は速度検知器のゲートをくぐった次の信号で左へ折れ、役所方面へ走らせた。片道一車線の道路へ入ると、一気に暗くなる。確か道の左側に運動公園があるはずだったが、入り口しか見えない。ずっと先に見えるコンビニの明かりが、灯台のように見える。

彼女は私のコース選択について、特に何も言わなかった。というか、車に乗ってからほとんど喋っていない。ハンドルを握ってから、私は彼女をホテルへ連れ込むべきかについてと、検問にぶつからないためにはどのルートを取ればいいのかに頭を取られ、あまり彼女の状態について注意を払っていなかった。世間話くらいはしたかもしれないが、あまり覚えていない。ひょっとしたら、眠くて帰りたくなってるかもしれない。あるいは車酔いの可能性もある。私は定期的に彼女の状態を確かめたが、いずれも首を横に振られただけだった。最低限の言葉と動きで済ませてしまおうという狙いが感じられる。というか狙いとは何だろう。完全に酔いが覚めました、というアピールか。単に酔っ払って、無口になってるのかもしれない。

私は試しに助手席側の窓を数センチ開けてみたが、入ってくる風に対して、良いとも悪いとも言わなかった。私は冷房を切り、運転手側の窓も開けた。虫の鳴き声とタイヤの音が、生ぬるい風と共にはいりこんでくる。

特に脈略もなく走っていたが、いつのまにかn号線に通じる道へ出てきてしまう。時計を確認すると、1時間以上走っている。そろそろ潮時だ。いくらか眠くなってきた。n号線の信号まで来ると、私は自宅の方角へハンドルを切った。再び片側2車線へ来ると、他に走っている車はいなかった。道路は緩やかに右へカーブし、田んぼばかりで遠くまで見渡せるが、ほとんど闇に塗りつぶされてしまっている。

「もう少し。帰らないで」
ようやく24時間営業のファミレスの明かりが見え、風景が街らしくなってきたところで、彼女は訴えてきた。私は行きたいところでもあるのかと尋ねるが「別に」という返事しかない。声に表情はない。彼女の顔を盗み見るが、道路灯の光くらいでは、表情は読み取れない。彼女は自分の腕を抱えるようにして座り、あごを引いて、じっと前を見ている。たまに下唇を人差し指でなぞる。紺のブラウスはゆったり目のシルエットで、シートベルトに押さえつけられて、複雑なシワを作っている。

私は彼女の気が済むまで、ひたすらn号線を行ったり来たりしようと決心した。いちいち右折したり左折したりするのも面倒なので、交差点でUターンをした。他に車もいないので、右折車線とか、そんなものにはこだわる必要はなかった。悪ふざけで、二車線の真ん中を走ったり、ついでに信号も無視ししてみた。
 
「止めて」
いい加減彼女も根を上げないので、川向こうまで範囲を伸ばそうと考えたところで、突然声を上げた。何の前触れもなく発せられた彼女の声は、聞き間違いを許さないような雰囲気だった。少し先の交差点を、左に折れて停車し、サイドブレーキをかける。彼女はすぐにシートベルトを外したが、だらりとした体勢で、しばらくそのまま動かなかった。体調でも悪くなったのかと聞いても、返事はない。気まずくなった私はエンジンを止め、座席を少し倒した。周囲が虫の音だけになると、ここまでの運転の疲労感が出てくる。

やがて彼女は意を決したように「ちょっと待ってて」とだけ言って外へ出た。さっきとは違うか細い声で「待ってて」の部分はほとんど聞きとれなかった。車に酔ったんだと思い、ダッシュボードからビニール袋を取り出し、車外に出る。彼女はドアに手をかけたまま、交差点の真ん中を見つめていた。私は彼女の目線の先と、表情を交互に見る。

他と比べれば小さな十字路だった。n号線と交差している道路は細く、数メートル先は見えない。通ったことのない道で、どこへ通じるのかはわからない。歩道は白いラインで区分けされてるだけで、しかも雑草がはみ出しているから、歩行者がまともに歩けないのは明らかだ。アスファルト全体がひび割れ、へこみ、もう何年も補修されてないようだった。私は子供の頃に見たn号線のことを思い出した。

不意にドアを閉める音がして、見ると彼女は道路へ向かって歩いている。声をかけようとしたが、迷いのない足取りを見て、タイミングを失ってしまった。交差点の中央には、それを示す十字の表示が描かれていて、彼女はその上で立ち止まった。暗闇の中、そこだけは明るく、スポットライトでも浴びているかのようだった。光の加減でこちらに向けた彼女の背中は黒く、シルエットからはみ出た髪の毛は、金色に輝いている。彼女は見えない客席に向かって、何かの演技をしているように見える。

劇場の裏方のような気分で彼女を見守っていると、今度はひざまずいて四つん這いの格好になった。スカートがこちらに向けて突き出され、ふくらはぎの地肌が露わになる。と思った瞬間、彼女の体中の力が抜け、その場に倒れこんだ。うつ伏せの状態で、顔を右に向けている。黒くて長い髪が、彼女の顔を半分くらい覆った。ちょうど十字の表示に沿うように、彼女は横たわって両手を広げた。地面には小石が散らばり、その中には車のヘッドライトのかけらも混ざっているのか、彼女の周りでは細かい光が放ってる。無意識のうちに、私は自分の左頬をさすった。

彼女が突然狂ってしまったということは十分考えられる。が、今、彼女が十字路の真ん中で横たわる行為は、何かしらの儀式なのだと私は解釈した。そう思うと、安堵と共に、どこか侮蔑的な気持ちを覚える。どちらにせよ、私の目の届く範囲にいる限り、急いで何か行動を起こす必要はない。気をつけるのは、他の車が来た場合だが、この見通しの良い道路なら、手遅れになることはないだろう。

考えが一段落すると、無性に煙草が吸いたくなってきた。生まれてからまともに吸ったこともないくせに、こんなことを思うのは奇妙だった。

車の中を覗くと、助手席に彼女のバッグがあった。運転席側から手を伸ばして持っきて、ためらうことなく止め具を外す。革製の表面は熱くも冷たくもなかったが、中に手を突っ込むと冷んやりとした。

暗くてよく見えないから、手探りで目的のものをつかみとろうとする。居酒屋で彼女は、煙草を吸っていただろうか。間違いなく吸っていた。銘柄はわからないが、細長い箱に入っていた。ライターと共にポーチに入れていた気がする。どちらにしてもそう手間はかからずに見つかるはずだ。

財布や化粧ポーチやキーホルダーの感触に紛れて、硬いものが指先に当たった。間違いない。強引に引っ張り出すと、長細い箱が手の中にあった。だが、何か様子がおかしい。見慣れないデザインだし、煙草の箱よりも一回り大きい。目の前に持ってきて確認してみると、それは妊娠検査薬だった。妊娠検査薬は上半分のビニールが剥がされ、上蓋は外側にめくれていた。開けてみると、中にはスティック状の袋が何本か入っている。元々何本あったのかはわからない。私はそれをバッグの底の方へ押し込み、止め具を戻した。が、再び開けて箱を取り出し、裏側の用法等の書かれた細かい字を目で追った。さっき無理に押し込んだせいなのか、箱の側面が少しつぶれている。ひと通りのやり方を把握すると元に戻し、バッグを助手席のドアに向かって力任せに投げつけた。

その間も彼女は横たわったままだった。

‥‥

光が迫ってきた時、それが何を意味しているのかについて、なかなか気づかなかった。すべての風景が黄色がかり、まるで強い風でも吹いたみたいに、周りの草木が後ろへのけぞっているように見えた。私は映画の主人公になったような気持ちになっていた。

彼女を見る。相変わらず横たわったままで、久しぶりに色彩を帯びた彼女の服や髪が、無性に懐かしく見えた。だが、ようやく状況を飲み込んだ私は、精一杯の力で地面を蹴り、彼女の元へ近づく。

圧倒的な光に照らされた彼女の顔には、一切の影がなかった。



<了>