朝考夜書

朝は考え、夜は書く。

十字路(17)

駐車場係の誘導に従って車を停め、そこから斎場まで5分くらい歩いたが、着く頃にはかなりの汗をかいていた。入り口の脇に喫煙コーナーがあり、そこで兼山を見つけた。上着とセカンドバックを左に抱え、黒いネクタイを窮屈そうにしながら、一生懸命煙草を吸っている。遠目でも汗だくになっているのがわかる。
「中で待ってます」
と声をかけようと、一歩踏み出したところで、隣で笠奈が「私も吸いたい」と兼山の方へ行ってしまった。私はその場で待つ以外にできなくなり、仕方なく上着を脱いだ。なんとなく脱ぎたくなかったが、汗の量が尋常ではなかったので諦めた。

建物に入るとかなりの人数がいて、そのせいか冷房が思ったよりも効いていなかった。私たちは終始隅の方で固まり、周りの様子を眺めていた。やはり制服姿の同級生が目立つ。泣き崩れている女の子のそばには、親が寄り添っている。大して親しくもない男子がふざけ合っている。天井にくくりつけられたスピーカーからお経が流れ始めると、係員の誘導で参列者は2列に並んだ。焼香するために、長い廊下を少しずつ進んでいく。列の進み方は左右で異なり、笠奈と兼山はずんずん進んでいってしまった。廊下の片側はガラス張りの窓となっていて、庭木がいくつか植えられている。さらにその向こうにの向こうにロータリーがあって、カーブに沿って幾つもの花環が並んでいた。私はふと、祖父が死んだ時のことを思い出した。死んだ年齢が違うせいか、祖父の時はこんなに大勢の人などいなくて、全体的にもっとこじんまりしていた。やはり真夏に息を引き取り、死体が腐るからと、大急ぎで葬儀の日程が決められた。私がまだ小学生の頃の話だ。ミキちゃんはもう3日経っている。もちろんあの頃とは違うからきちんとドライアイスなんかで徹底的に冷やされ、傷みは最小限に抑えられているのだろう。それでも誰にも気付かれない細かい部分で、ミキちゃんの体は朽ち、少しずつ形を失っているのだろう。

列がどんどん枝分かれして、8列になったところでようやく焼香の番がきた。対面式にずらりとミキちゃんの両親や祖父母が並んでいる。兄とおぼしき人物は確認できたが、妹の姿は見えなかった。私はその向こうの、親戚たちの固まりの中に妹の姿を探したが、見つけることはできなかった。自閉症はお別れにも参加させてもらえないのか。後ろが押し迫ってる中、焼香する一瞬のタイミングで奥の人物を見分けるのは、ほとんど不可能だったが。


出口で笠奈と兼山に合流して外に出ると、2人は真っ先に灰皿の元へ行き、煙草に火をつけた。私にはそれがとても不謹慎に思えた。とは言っても怒って先に帰るわけにもいかず、仕方なく立ち尽くして蝉の鳴き声をに耳を澄ました。私は、下手をしたら暑さに頭をやられたおかしい人のようだった。とにかくすぐにでも帰りたい。兼山から離れたい。ミキちゃんがいないのなら、私の生徒は0で、もう塾とは何の関わりもなくなる。もう2度と塾講師なんてやりたくない。笠奈は兼山と何かを喋っているが、声はここまで届かない。喫煙コーナーは植木で囲まれていて、葉が風にそよぐ様子を見ていると、こちらよりも涼しそうな錯覚を覚える。兼山が煙草を挟んだ右手をどこかに指し示し、何かを説明している。笠奈は背中をこちらに向け、表情が見えない。煙草なら私の車で吸えばいいのに。笠奈は遠慮して車の中で吸ったことはない。遠慮の方向が間違っている。つくづく馬鹿な女だと思う。

「ちょっと兼山さんとご飯食べて帰るから、悪いけど1人で帰ってくれる?」
ようやく煙草が吸い終わると、笠奈が近づいて言ってきた。私が兼山の顔を真正面から見ると
「今後の授業のこともあるし、今回のことも、ちょっと整理したいんだよ。他の生徒の影響もあるし」
と言い訳がましく並べた。それなら私も同席すべきだと提案しようと思ったが、どうせなんだかんだ理由をつけられて拒否されるのはわかっていた。私は、ただ兼山のことを睨みつけた。二重顎の童顔、ぺったりとしたヘルメットみたいな頭。ネクタイはすでにゆるめられている。だらしなく突き出た腹、ロレックス、つま先の尖った革靴。1つずつゆっくりと眺める。不自然なくらいそのままの態勢でいたので、兼山は途中で気まずそうに何度も目を逸らしたが、私は構わず見続けた。これで兼山は確実に私と笠奈の関係を悟っただろう。笠奈はずっと下を向いていた。

家に帰ってからすぐに服を着替え、そのまま笠奈からの連絡を待っていたが、結局その日に電話が鳴ることはなかった。こちらからかけても留守電につながるだけだった。


「本当に、ごめん」
結局笠奈から連絡があったのは、翌日の夜遅くになってからだった。まず一番に謝られた。それだけでも嫌だったのに、笠奈は電話口でもわかるくらいに、激しく泣いていた。私は笠奈の身勝手な行動を責めたり、兼山との関係をもう一度問いただしたかったが、ただ泣きながら謝るだけで、話が全く進まない。今から会えないかと聞くと「できるだけ早くきて」と途切れ途切れに答え、電話は切れた。

いつもの弁当屋の駐車場についてから携帯を鳴らすと、笠奈は道の向こうから走ってきて、私の車に飛び込んできた。白いTシャツに黒のジャージを履き、足元もサンダルという格好だった。ドアを勢いよく閉めると「顔見ないで」とだけ言ってすぐに私の胸に顔を埋めた。私は気が済むまで泣かせてやろうと思い、笠奈の頭を撫でたり背中をさすったりした。すっかりお馴染みになった弁当屋の看板には、無数の蛾が集まっている。

「やっぱり君と付き合うんじゃなかった」
やがて泣き止んだ笠奈が私のシャツにしがみつきながら言った。
「なんで?」
「だって、ミキちゃんは君のことが好きだったんだよ。私が取っちゃったから、ミキちゃんは自殺しちゃったんだ。全部、私が悪い」
「そんなわけないだろ」
「ある」
「俺はミキちゃんの妹に会いたいって言ったの。でもそんなの親が許すわけないし。板挟みになってミキちゃんは死んだんだよ、だから、俺が殺した」
笠奈が勢いよく私の体から離れた。目を真っ赤にした笠奈が私を睨む。
「は? 何それ」
「だから、自閉症の妹を両親が疎んじていて、ミキちゃんはずっと苦しんでたんでしょ?」
「そんなの嘘に決まってんじゃん」
嘘? 一瞬目の前の風景が歪んだ。化粧をしていない笠奈の顔が別人に見える。
「あれは全部あの子の作り話だよ。みんなの注目を集めたくて。そういうことをする子なの」
私はミキちゃんの傷口をふさぐような泣き方を思い出した。
「ミキちゃんはそんな子じゃないよ。そんな子が、あんな泣き方をするわけがない」
「うるさい。嘘と言ったら嘘なの。馬鹿じゃないの? すっかり騙されてる。あの子はあなたが思うような立派な子じゃないよ」
「ミキちゃんは嘘をつくような子じゃない」
笠奈が私から目をそらした。
「やっぱりそうじゃん。君は、わたしよりあの子の方が好きなんだよ。私が死ねば良かったんだよ」
私は力ずくで笠奈を抱きしめようとした。笠奈は激しく抵抗したが、私が助手席側に身を乗り出し、体をつけると一気に力を抜いて、また泣き出した。
「こんな女でごめん。わたし、もうわたしじゃないみたい」
「今は仕方ないよ。今は時間が過ぎるのを待とう。そうすれば、必ずいい方に変わるから」
「あのね、わたし塾辞めるから。兼山さんにも昨日そう言ったから。信じてくれる?」
「信じるよ」
「わたしのこと、好き?」
「好きだよ」
「わたし、もうあなたのことしか愛さないから。この先も、ずっとあなたのことが好き。たとえあなたが他の人を好きになっても」
私は、かつてそうされたみたいに笠奈の頭を撫でてあげた。乱れていた髪を整えてやり、涙も拭いてあげた。それから短いキスをした。

帰りたくない、と笠奈が言い張るのでだいぶ迷ったが、ホテルに行くことにした。ロビーから部屋まで無人だったが、笠奈はずっと下を向いて私の左手にしがみついていた。部屋に入るなり笠奈はすべての照明とモニターを消してしまったので、私は手探りで笠奈の服を脱がす必要があった。笠奈はその間も私の首に手を回してキスをしてくるので、全部脱がすまでにかなりの時間がかかった。


「俺、就職しようと思う」
行為が済んだ後に順番にシャワーを浴び、冷蔵庫のビールで乾杯をした後、私はそう言った。弱い光だが、照明もつけられた。
「そんなに急がなくてもいいんじゃない?」
「まあすぐには決まらないと思うけど、就活はするよ」
「なんかスーツ姿とか想像できないな。ていうか、持ってるの?」
「成人式と、大学入学のときのがあるから」
「ふうん。どういう仕事探すの?」
「事務系かな。営業は絶対イヤだ」
「なんでもいいけど、女の人がいるところはダメだからね」
「え? 無理でしょ」
「じゃあ、就職は中止」
「無茶苦茶言うなよ。どうすんだよ、この先」
「あのさ」体の向きをこちらに向け、笠奈が改まる。
「勘違いしてるみたいだけど、わたしは君が思うより、ずっと弱い女なんだよ。君を好きになってからも、たくさん傷ついたし。だからさ、わたしのことたくさん愛して、お願いだから」